奈良県中部地方の伝統だったお稲荷さん初午の旗飴 

(写真1)稲荷信仰の中心、京都の伏見稲荷社
写真提供:京都フリー写真素材 (https://photo53.com/)

初午の旗飴(はたあめ)と聞いても何のことかわかる人は少ないでしょう。これは中和(奈良県の中部地域)の伝統で、毎年2月の初午の日にお稲荷さまに旗飴というお菓子をお供えし、それを子供たちにあげるというものです。

昔のカレンダーには日毎に子、丑、寅、卯、、、の名前がついていました。十二支ですね。ひと月は30日だから順番に十二支の名前を付けて行けば、一か月で2回半ほどめぐることになります。例えば1日が午(うま)の日だと、13日と25日が午の日で、その月は午の日が3回です。2月の初午の日はお稲荷様の誕生日なんだそうです。正確には伏見に鎮座された日だとか。2020年の初午は旧暦の2月10日。これは新暦に直すと3月4日(水)になります。

(写真2)懐かしい旗飴(のぼり飴と呼ぶ地域もあります)

ちなみに江戸、東京では酉の日が有名です。私のいた新宿区では花園神社で11月の酉の日に大きな縁日が立ちました。縁起物の熊手を買うので有名です。関西でいえば恵比寿さんの笹にあたるのでしょうか。

中和には稲荷神社がたくさんあります。また商家などにもよくお祀りされています。昭和の時代には多くの商家が旗飴をお稲荷様にお供えしてました。それを小学校から下校する子供たちがもらいに回ったものです。「おばちゃーん、飴ちょうだい。」という具合です。うまくできてるのは小学校は学年が上がると下校時間が遅くなることです。つまり1年生、2年生がまず町内を回って飴をもらえるというわけです。5年生6年生の時には、もらえなくなると困るので、情報交換しながら走って回った覚えがあります。「あそこのお店ならま旗飴が残ってるぞ!」という情報は子供には貴重なものでした。

(写真3)三輪成願稲荷神社初午の神事 (大神神社ホームページより)

残念なことにこの旗飴、平成28年を最後にもう奈良県内では作っていないようです。が、しかし今年ももらえる場所が一つだけあります。それは大神神社の摂社である「三輪成願稲荷神社(〒633-0001 奈良県桜井市大字三輪290−3)です。この神社のことは下のブログに詳しいです。

成願稲荷神社 霊験あらたかな稲荷の神様(奈良県桜井市)

お祀りは2020年3月4日(水)朝の11時に開始されます。神事の後、参拝者は旗飴をもらえます。もう奈良県では作っていないので京都に特別注文している旗飴です。この旗飴の伝統、何とか復活できないものでしょうかね。

多摩川沿いのランニングレース「こりゃ多摩ラン」

東京でのランニングレースで開催回数の多い「こりゃ多摩ラン」の2月2日開催分を走ってきました。 20㎞の部です。京王線の京王多摩川駅を降りて5分。河原にでればそこがレースの受付です。こじんまりした大会で、スタートから1.5kmほどは幅2mくらいの舗装路の左側を一列縦隊で進みます。まあ出走が200人ほどなので出来ることですね。

【写真1】気持ちの良い晴天で、富士山が一日きれいに見えました。

【写真2】こりゃ多摩ランの20㎞コース。西に10㎞走り、東に10㎞戻るコース。

(1)コース
20㎞レースのコースは河川敷の舗装遊歩道兼自転車道。割と道幅の狭いところがありますが、ランナーの数が少ないので団子状態にはなりません。とくに不便なく走れました。河川敷の中でスタートして、途中4度ほど土手に上がったり下がったりの坂があります。この季節は西風が強く、行きはつらく戻りはらくちんという都合の良い状態です。これが逆なら疲れている戻りがが逆風なので辛かったでしょう。

(2)データ
1) 距離:20.0km
2) 記録:1:57:46
3) 平均ペース:5:52/㎞
4)平均心拍数:141bpm  beats per minute
5)平均ピッチ:173spm      steps per minute
6)消費カロリー:840kcal

(3) 評価
練習が十分でなかったので1㎞あたり6:30くらいのペースで完走だけを目指そうか、と思っていました。でもスタートすると割と体が軽く5:30㎞のペースでも走れている。往路は向かい風なので、別のランナーの後ろにぴったりついて風をよけて走りました。グラフで振り返ってみましょう。

【写真3】20㎞レースのペース。横軸が距離(㎞)で縦軸が速さ(分:秒/㎞)

a) ペース
平均ペースは5:52/kmですが、前半は5:40/kmで、後半は6:00/kmくらいでしょう。15㎞過ぎのペースにムラがありますが、失速というほどではありません。速度が落ちているところは痙攣しそうな左のふとももを庇って走っていた時です。15㎞すぎに短時間ペースががたんと落ちてますが、これはシューズの紐を結びなおしていました。約2分ほどのロスでした。15㎞過ぎにはかなり疲れが出ていたのに失速しなかったそのわけは?

【写真4】20㎞レースのピッチ。横軸が距離(㎞)で縦軸が歩数(ステップ/分)

b)ピッチ
失速しなかったわけは後半疲れて歩幅が小さくなるのをピッチ、つまり時間1分当たりのステップ数で補っていたからです。最初の5㎞は1分当たり170歩以下のピッチ、それがだんだん早くなって15㎞過ぎからは175歩になっています。ゴール前の500mは180歩です。平均の歩幅は99㎝なので、最初の5㎞の歩幅は110㎝、最後の5㎞の歩幅は90㎝くらいでしょうか。 後半疲れて足が前に出なくなり歩幅が短くなると、足を小刻みに早く動かしてピッチで稼ぎます。これにはコツがあって、それは呼吸です。

c)呼吸
呼吸のデータは取ってませんが、私の作戦は次の通り。スタートから当分は歩幅も大きいから呼吸は2つ吐いて2つ吸います。中盤は3つ吐いて3つ吸い、終盤は4つ吐いて4つ吸います。もちろん1つごとに足を1歩進めます。呼吸とステップを合わせることに集中すると疲れを紛らわせることが出来るのもいいところです。座禅でいうところの数息観。雑念が入ってきません。

(4)反省点
やはり練習が足りなかったことと、体重管理に問題がありました。1週間前にアップダウンのきつい10㎞のクロスカントリーがあり、割と足の負担がありました。結局練習は金曜日に11kmほどの走り込みをしただけでした。逆に言えば十分な休養が取れたので、最初の5㎞は体が軽く感じたのでしょう。しかし実際の体重は68㎞。ベスト体重から5㎏もオーバーです。ちゃんと体重管理をしていれば55分も十分可能だったでしょう。それから靴の紐の加減は大切です。今回の紐はユルユル状態。シューズのなかで靴下が滑っているのが分かりました。次のレースは2月23日の京都宇治川のハーフマラソン。体重落としていきましょう。

東京国立博物館の「出雲と大和」

(写真1)博物館のイベント広告

見てきました。東京国立博物館の「出雲と大和」展。出雲(島根県)は一度行っただけなので、知らないことが目白押し。発掘品からは出雲に大きな勢力があったことが分かります。しかも大和とは別系統の。おびただしい鏡や剣の出土品の展示にも圧倒されますが、面白かったのは古墳の形。大和では前方後円墳がポピュラーですが、出雲の古墳で特徴的

なのが、四隅突出型墳丘墓。上から見たら長方形なのですが、四隅がビヨーンと飛び出しています。

(写真2)島根県出雲市大津町の西谷 3 号墓

3世紀には長方形の長いほうの辺が50mのものが作られていた、と言いますから大きな勢力でしょう。このタイプの墳墓の分布は中国地方の山中から島根県、そして福井県、石川県、富山県にも残っているようです。副葬品もいろいろ見つかっていますが、奈良時代になるころから作られなくなったそうです。

そこで気になるのが、国譲りの神話。今回の展覧会では「出雲が幽をとり、大和が顕をとった」としています。つまり政治の実権は出雲から大和に移ったということです。何があったかは想像するしかないのですが、出雲王朝は大和王朝に権力を移譲し、そのかわり祭祀を担当すことになったのでしょう。国と国との併合は歴史上色々あります。ブリテンとスコットランド、ヒトラーの時のドイツとオーストリア、1910年の日本と朝鮮の併合。戦って呑み込まれたのでは無かったにしろ、勢力には強弱があって、一方にとっては不本意だったのかもしれません。

【写真3】 鎌倉時代までの出雲大社は高さ48mだったとか。16階建てのビルの高さ!

大和の王朝は併合の条件として、大和に出雲のオオモノヌシの神を最高の神としてまつることにしたのかも。あなたたちの神を自分たちの神としてお祭りするから一つの国になろうね、というでしょう。大神(おおみわ)神社の御祭神オオモノヌシと出雲のオオクニヌシとは同じ神とされています。

次に感激したのは石上神宮の「七支刀」。日本書紀では「七枝刀 ななつさやのたち」と書かれています。展示品の盛りだくさんななのでそれなりのペースで会場をあるいていると、その刀が視野を横切りました。「ああ、石上のあれね。多分レプリカでしょ。」と思いつつも念のために確認すると、なんと国宝の本物でした。この刀が作られた年にしてから268年、369年、468年と諸説がありますが、百済王から大和に贈られたのは間違いないようです。ただし献上なのか下賜なのかには論争があります。つまりどちらが格上なのかの議論。今も昔もですね、ほんとに。石上神宮には毎年正月の2日に橿原からランニングでお参りしています。今回、本物の宝物を見ることが出来て、ありがたさ100倍でした。

 

埼玉の川越と奈良県の関係

第42回の全国町並みゼミは埼玉県の川越市で開催され参加してきました。江戸城の北の守りとして要衝の地であることは知ってましたが、それは江戸の事情。奈良県、大和国には何の関係もないだろうと思っていました。が、しかし。歴史に川越の歴史マニアに聞いてみると、色々と因縁があるんですね、川越と大和国。

 【写真1】埼玉県の川越は重厚な蔵造りのまちなみで有名

江戸時代は交通も不便だから、人の行き来はずいぶんと限られていたと思いがちです。でも各地の街道は整備されていてお伊勢参りなどの巡礼旅が盛んでした。また大名には「国替え」という制度があり、大名が家臣をつれて領地を異動するという制度がありました。また戦役や土木工事では遠方の大名が幕府から役目を仰せつかることも多く、日本各地は色々な因縁で結ばれていました。川越と大和国も歴史的因縁には二つあります。

まず最初の因縁は島原・天草の乱。寛永14年(1637)に天草四郎を大将として乱がおきました。実はその22年前の慶長19年(1614)に大和五条の二見藩から4万3千石で島原藩に転封になったのが松倉豊後守重政。五条では名君の誉れ高い重政ではありますが、島原では重税とキリシタン弾圧により住民の反目を買い、ついに 島原・天草の乱 を招いた、とされています。乱がおきたのは嫡男勝家が当主の時代ですが、領内での初期の鎮圧に失敗、日本国中を騒がせる混乱になりました。後に乱の責任を問われて勝家は異例の斬首刑となり、松倉家本家は断絶しました。

事態を重く見た幕府が派遣した板倉重昌を総大将として九州の諸藩が一揆の拠点である原城を攻略しようとするも失敗。この事態を打開すべく幕府から追加で派遣されたのが老中 松平 伊豆守 信綱です。非常に有能なひとで知恵が働くから「知恵伊豆」と呼ばれました。この信綱が乱を平定しその褒美に、もとの3万石を倍増されて6万石で転封されてきたのが武州川越藩。川越藩の振興に大いに寄与したそうです。つまり天草の乱で断絶となった松倉家は奈良県の出身。逆にこの乱でチャンスをつかんで出世した松平信綱がもらったのが川越藩、という因縁です。

【写真2】現在の航空写真に重ねた川越城

次の因縁は大和郡山の柳沢藩に関係します。大和郡山藩の藩祖の実父である柳沢吉保は安定の江戸時代において異例の出世を果たしたシンデレラ・ボーイです。1658年生まれで、元は群馬県の舘林藩士でしたが、なんと 舘林藩主の綱吉が兄である第4代将軍家綱の跡目をついで第5代将軍に就任。吉保も幕臣となりました。禄は530石から始まり、綱吉の側用人として取り立てられ、加増に加増を重ね、ついに1694年7万2千石で川越藩主になりました。さらに勢いは止まらず1705年に与えられた甲府の所領は15万石。今も東京文京区に残る大名庭園の六義園は綱吉の江戸屋敷跡です。

蔵造りの街 川越のランドマーク「時の鐘」。400年間も時刻を知らせてきました。

柳沢吉保亡くなったのは1714年のこと。甲府近くの永慶寺に葬られました。そして跡継ぎの柳沢吉里が転封を命じられ同じく15万石で大和郡山藩に入ったのは1724年のこと。面白いのは菩提寺の永慶寺まで甲府から大和に移転したことです。大和柳沢藩の藩祖吉里はよく領内をおさめ今でも城内の柳沢神社の御祭神としてまつられています。つまり川越藩主の柳沢吉保がいなかったら大和郡山の殿様は柳沢家にはなっていなかったということです。

橿原市今井町 春日神社のとんど

今年も橿原市今井町の春日神社では「とんど」があり、町の人がお札、しめ縄、縁起物の熊手などを持ち寄って燃やしました。「とんど」の大きなものでは御所の茅原のとんどが有名で、「左義長さぎちょう」とも呼ばれています。変な名前ですね。そこで調べてみると、、

とんどの火をつけるのは年男の役割。今年は四丁目の久保田広繁さんです。

そもそも とんど(=左義長)は平安時代の宮中行事が民間に広まったもので、正しくは「三毬杖(さぎじょう)」と呼ばれたそうです。毬杖(ぎじょう)とは毬(まり)の杖(つえ)で蹴鞠(けまり)を棒で打ちあう遊びの道具。今でいうとホッケーのスティックでしょうか。宮中では毎年小正月(1月15日)このスティック3本を結び、色々なものを添えて焼き、陰陽師が吉凶を占ったそうです。この三毬杖(さぎじょう)行事が、民間の当て字で左義長を標記されるようになったようです。

とんどは春日神社の神事ですから、まずお祓いで始まります。町の人たちが持ってきたお守りや注連縄(しめなわ)をお祓いします。その意味を宮司さんに尋ねてみました。

この1年家族と家を守っていただいたお札なども1年たって力も少なくなってきたので、感謝の気持ちでお祓いをして燃やすことで天に戻す、ということのようです。確かに神様の関係のお札や注連縄をゴミ箱に入れるのは違和感がありますね。

お天気に恵まれて火の勢いはとても強く10m以内だと熱くてしょうがない、5m以内だと服が焦げてしまうかと心配するほどの火力です。

とんどに縁起物などを投げ入れる春日講の講元さん。

火の勢いが弱くなった時点で、縁起物などを投げ入れて焼きます。60年間使ってきた麹蓋(こうじぶた)や結納の飾り物などもありました。

奈良県発祥の日本文化 漆(ジャパン) の伝統

漆から学ぶこと

このプレゼンテーションは2020年1月15日(水)に奈良シニア大学橿原校の講義で使われたものです。画像の下のメモは大和まちなみ文化塾の追加解説です。

この講義は質疑応答を含めて約100分間のものでした。

柴田先生は昭和24年生まれです。

本朝事始の記載は「 ヤマトタケルが、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大きな猪に矢を射ましたが、止めを刺すことができませんでした。そこで近くにあった木を折ってその汁を矢の先に塗り込めて、再び射ると、見事に大猪を仕留めることができました。木汁で手が黒く染まったヤマトタケルは、部下の者に命じてその木汁を集めさせ、持っている物に塗ると、黒い光沢を放って美しく染まりました。」というものです。柴田先生は、「漆を毒として使ったのではなく、矢じりを固定する接着剤として使ったのだろう。」という見解を示されました

漆には接着剤効果があります。スズメバチの大きな巣がありますが、あれが家の軒などからぶら下がってるその取り付け部分は漆です。ハチでも漆を接着材として使っているのです。かつては街には漆の小売り屋さんがあり、普通の家庭の主婦が漆を買ってきて接着剤として使っていました。

10年から15,6年で漆の木は渓16-7cmにまで育ち樹液が採取できます。採った後は値を残して切ってしまいます。その切り株から「ひこばえ」という芽が出てきて、また10数年育てます。なるほど親の根を使わせてもらえれば水の吸い上げが楽でしょうね。

京都の漆屋(材料商)によると、かつては吉野漆というのがあり、最高級の品質だったそうです。

レアさんは日本の大学院に留学中のパリジェンヌで、毎日柴田先生の工房に通い、金継ぎを乾漆の技法を勉強しています。日本滞在は2019年9月から2020年3末までです。次の画像からはレアさんが習っている金継ぎ等の作業の説明になります。

割れた陶磁器を準備します。何もない場合には、稽古のために100円ショップから買ってきた器をわざと割って教材にすることもあります。

のり漆を作るには、まず炊立ての米粒をへらでよく練って漆をたらし、さらに練ります。これを割れた陶磁器の断面に塗って接着します。

上の写真で手が写っているのがレアさんです。左利きなので柴田先生が左利き用の作業ヘラを削ってあげています。

接着した陶磁器は「室/ムロ」にいれて10日ほど乾かします。簡易なのものであれば段ボールの箱に濡れタオルを敷いたのものを使います。漆の成分であるウルシオールはは空気中の酸素と反応して硬化する働きがあります。

接着した陶磁器の割れた部分の段差や欠けを「砥の粉」を漆で練った錆漆というペーストで埋めます。

下地が乾いたらカッターナイフで余分な錆漆をはつり落とします。 柴田先生の教室では刃が薙刀のように丸く反ったカッターナイフがあり、使いやすいです。

さらに漆で中塗りをします。

いよいよ金粉。銀粉の下地となる上塗り作業です。赤い塗料の入った漆を使います。

乾いていない上塗り漆に金粉か銀粉を蒔きます。筆を使い、左右から金粉を漆に寄せて行き、筆先が直接生漆に触らないようにするのがコツです。

金粉、銀粉は1粒1粒が顕微鏡で見るとボールの形になっています。だからやたら効果だそうです。小さな小さなボールの下版分は漆に埋まっており、上に出た部分をトクサで磨いて最大直径の部分が出るようにします。さらに漆を塗って金粉、銀粉を定着させます。

フランスで金継ぎのプロを目指すなら稽古中でも客を取りなさい、と柴田先生はレアさんに依頼主を見つけてきてお金をもらう仕事をさせます。プロになる第一歩を京都で踏み出すことは大きな意義があるでしょう。レアさん嬉しそうです。

レアさんは金継ぎともう一つ乾漆の修行をしています。これは材料。見ての通りの西洋梨です。 ラ・フランスというのはフランスには無いのだとか。

乾漆の出来上がり。もう生のフルーツではなく漆器になっています。この色つやがずっと続きます。柴田先生は大振りの香合のつもりで指導しましたが、レアさんはフランスに持って帰ってチョコレートを入れるのだとか。

たくさんの質問が出ました。
(1)問:家にあるピアノや下駄箱が漆塗だと聞いているのですが本当でしょうか?
   答:モノを見なければわかりませんが、かつては大型の家具も漆塗りで作っていた
     ようです。現在は別の方法の塗装であることがほとんどです。
(2)問:うちに根来塗の赤いお盆があります。講義の中でも上塗りの漆が赤い色をして
     ましたが、あの色はどうやって出すのですか?
   答:今では水銀を使っています。それ以外にも安い材料はあります。かつてはカド
     ミウムも使っていたそうっですが、今は禁止されています。赤い色にもいろい
     ろな段階があり、その色を出すための方法が違ってきます。
(3)問:吉野に上質な漆があるとのことですが、ヤマトタケルと関係はあるのでしょう
     か? また漆で村おこしをしているところはどこですか?
   答:ヤマトタケルの漆の物語は宇陀の 阿貴山 とされており、吉野の漆との関係は
     不明です。また漆部造(ぬるべのみやつこ)が置かれたのは曽爾村の 塩井地
     区 というところで、漆の木を植えて 「ぬるべの郷(さと)」 をテーマに村おこ
     しをされています。

大和まちなみ文化塾では柴田先生の金継ぎ教室を実施しています。
場 所: 橿原市今井町の古民家を改装した「今井にぎわい邸」
開催日: 毎月第1第3土曜日の朝10時からです。
申込み: 下の案内にある連絡先まで

訂正:授業は12時ごろに終了で、その後抹茶かコーヒーを差し上げて歓談。13時には片付けて退出です。

ビジネスアイデア 飲食店の回転率をあげる奈良県物産の体験教室

奈良県が主催するビジネスコンテスト(ビジコン奈良)のセミファイナルすなわち第3次選定のための発表会がありました。大和まちなみ文化塾からは「 飲食店さん、 空き時間にお店貸してね。 奈良県商品のファン作りたいから。」というタイトルで参加・発表しました。

ビジコン奈良のセミファイナルで自己紹介する塾長

このビジネスモデルの提案は県内の飲食店の空き時間に、大和まちなみ文化塾が日本酒などの教室を開催するというものです。教室の生徒は授業の後に飲食するので、お店にとっては顧客の新規開発になります。また教室は英語でも対応するのでインバウンドの外国人も来てくれます。これが飲食店と大和まちなみ文化塾とのウィンウィン関係。

県内の生産者、例えば造り酒屋さんを例にすると、大和まちなみ文化塾は商品情報をもらって講義に入れ込み、教室で解説します。これでその造り酒屋の日本酒のファンを作ります。そのかわり教材の日本酒は無償で提供いただきます。他の銘柄とも比べてしっかり解説するので、 デパートで試飲会をやるよりは 効果があるでしょう。 これが県内生産者と大和まちなみ文化塾とのウィンウィン関係。

さらに県内の消費者や観光客です。この人たちには県内産商品を詳しく知りたい、あるいは、奈良県でしかできない体験をしたい、と思っています。そこで大和まちなみ文化塾が体験教室を開催して楽しく詳しく、日本語と英語で解説してあげる。そして生徒さんからは授業料をいただく。 これが消費者・観光客と大和まちなみ文化塾とのウィンウィン関係。

このビジネスモデルの解説資料を以下に貼っておきます。

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お茶の名所武夷山の竹筏(いかだ)下りの茶会

中国のお茶所、福建省武夷山で筏(いかだ)くだりのお茶会を楽しみました。筏下りがあると聞いて案内所でチケットを買って、その日の最後の筏に乗ってみたらお茶の振る舞いがついてきたわけです。

3人いる 筏くだりの船頭さんのリーダー

日本の茶の湯は独特な発展を遂げ、それ自体が目的、テーマとなってしまってます。つまり「お茶を飲みながら何かをする。」というのではなく、人を招待してお茶を飲むこと自体が目的なんですね。このような茶会はあちこちにあって中国や台湾の煎茶道、セネガルのお茶接待などがそうでしょう。エチオピアのコーヒー接待などもそうかもしれません。

私の知り合いの「茶の湯マニア」は何にでも抹茶を持ち込みます。神宮球場の巨人阪神戦では茶道具を持って外野席に陣取り、阪神必勝茶会を開くのです。自分の結婚式では新郎新婦が抹茶を点てて飲み交わす儀式を執り行いました。これは茶の湯の可能性の限界に挑む行為と言えるでしょう。

私も以前から中国に煎茶道に似たお茶の飲み方、作法の体系があることは知っていたし、シンガポールや台湾では自ら経験もしました。しかし筏くだりと煎茶を組み合わせるとは、「中国おそるべし」です。

お茶のお点前を見せながら九曲渓を解説するガイドさん

筏で下るのは九曲渓という川で、乗り場は武夷の街中にあります。 私が行った時の九曲渓は流れの幅は狭く水深も少なく、浅い瀬では20㎝くらいと思われるところもありました。

そこを3人の船頭さんが巧みな竿さばきで筏を操ります。直径12㎝ほどの竹を並べてくくりつけた筏なので竹と竹の間から水が吹きあがり、気を付けないと靴を濡らしてしまいます。

九曲渓 は奇岩の風景が連続する名勝

筏のスタッフはガイドさん兼お点前さんが一人、それに船頭一人に助手二人です。船頭は筏の前で方向を決め、二人の助手は船頭に合わせて筏の後尾を浅瀬や岩に当てないように操ります。下は30秒ほどの動画のファイルです。

ガイドさんはヘッドマイクで名勝 九曲渓 の歴史や見どころを解説しながら、手は休むことなくお茶を淹れ続けます。まず一杯いただいて空の湯飲みをテーブルに戻すとまた淹れてくれる。かれこれ10杯ほど飲んだかもしれません。お茶はもちろん緑茶や抹茶ではなく、中国の半発酵茶であるウーロン茶です。

お茶好きの人が福建省に行くなら是非この筏くだりの体験をお勧めします。現在私が考えているのが、茶の湯の新幹線手前と高速道路移動中後部座席手前です。中国人が筏の上で茶会をやるのなら、日本人の私が新幹線の座席や高速道路移動中に茶会をやっていけないという理屈はないでしょうからね。

日本酒飲み比べ奈良「書架」で日本酒教室

2020年から飲食店「書架」さまとの連携での日本酒教室を始めました。奈良の観光にもおすすめの体験イベントです。複合飲食施設「書架」の場所は東大寺大仏殿の南大門の近く、というより奈良国立博物館のバス停前といったほうがいいかも。「夢風ひろば」の一角です。

この日本酒教室は日本語、英語で開催します。そのうち中国語でもやりますよ。

初回に飲み比べた教材日本酒は次の四銘柄。
奈良今西清兵衛の 春鹿 超辛口
三輪今西酒造の 菩提酛 三諸杉
奈良豊澤酒造の 無上盃
吉野北岡本店の やたがらす たる樽

今回の教室で使った日本酒教材

まずは四銘柄の特徴を飲んでいただきながら軽く解説します。

まず最初の酒は春鹿の超辛口。特徴は日本酒度+12の切れの良さ。アルコール濃度は15%、酒造好適米の五百万石を4割削って精米歩合は60%。すっきり辛口に仕立てています。

生徒に配られる利き酒シート

教室の生徒は四銘柄の説明を聞いて試飲で味も確認しながら、自分の印象を利き酒シートにメモします。味覚を言葉で書き記すのはむつかしいのですが、ワインの評論家などは詩人のように味を語っていますから不可能ではないはず。

さて二番目の酒は菩提酛三諸杉。三輪の今西酒造さん、良い酒作りますね。菩提酛は菩提山正暦寺に室町時代から伝わる酛(酒母)の製法で、生きた乳酸菌を使います。そもそもこの正暦寺の僧坊酒が清酒の発祥といわれています。「火入れ」、「諸白」、「三段仕込み」などは今でも使われている醸造技術です。

例えば「火入れ」は酒に熱を加えることで発酵を止め、雑菌を抑える技術です。西洋人でこの 低温殺菌法(pasteurization) 見つけたのはかの有名なパスツールで1862年のことでした。でも日本人はそんなことパスツールが生まれる何百年も前から知ってたのね。これって凄くないですか?

この日本酒、菩提酛三諸杉の特徴は何といっても乳酸菌由来の酸味。 酸度でいうと他の銘柄は1.2~1.6なのに、菩提酛三諸杉は2.7。独特の酸味とお屠蘇のような不思議な香りが特徴です。アルコール濃度は16.5%、日本酒度は-6ですが、甘さを感じさせないどっしりした感じ。微かに黄色く発色しています。原料米は奈良県のヒノヒカリ。食用米です。

豊澤酒造 無上盃のデータシート

さて三番目の銘柄は奈良豊澤酒造の無上盃。自信作なのでしょう。これ以上の酒は無い、から無上盃。酒造好適米の山田錦を四割削って、アルコール度数は15%。日本酒度はちょい辛目で酸度、アミノ酸度ともにバランスがよく、万人受けする造りと言えるかも。データでは日本酒度をのぞいて春鹿超辛口と似ています。利き酒には日本酒度の+3と+12の飲みわけが大切です。私には味はほぼ同じだけど無上盃のほうが後味の消えが早く感じます。

生徒たちも自分のメモと直感を頼りに四銘柄のあてっこゲーム(ブラインド・テイスティング)を楽しみます。

銘柄のわかっているカップ4つと不明なカップ4つを扱います

さて最後の銘柄は吉野北岡本店のやたがらす純米酒「たる樽」。これもよくできたお酒で、原料米はキヌヒカリ。アルコール濃度(+2.5)、日本酒度、酸度、アミノ酸度、精米歩合(68%)のすべてを控え目にしています。何のために? それは杉の香りを引き立たせるため。この一点です。やたがらすの樽酒は私の好きな酒で、「死んだらお墓にこれを供えてね。」と言ってるくらいです。食べ物とのマッチングでいえば、データ上は薄味で油のないものが合うのですが、何の何の。杉の香りがくっきりしているので、シチューにも焼肉にも行けます。もちろん和食は言うことなし。

ワインの分類を参考にした教材四銘柄のタイプ・マッピング

お酒のタイプと食べ物の相性はむつかしいものがあり、データでプロットすれば上のグラフの様になるはずです。さらに料理との相性では下のグラフの様になるとされているのですが、そこは、縁は異なものオツなもの。私の感触ではやたがらすの樽酒は四つの領域すべてをカバーしていると思います。

日本酒のタイプに合わせた相性のよい料理チャート

生徒さんも議論に加わって、ああだこうだ言ううちに教室の終了時間が来てしまいました。

酒造好適米と精米歩合の解説

なお奈良国立博物館前の「書架」では歩道に面して大和茶の屋台「言の葉」、おでんの屋台「天の戸」があります。「天の戸」ではおでんばかりではなく、今回の教材四銘柄の立ち飲み,試飲ができます。お好み三銘柄の飲み比べセット(1,000円)がおすすめです。

円形の集合住宅 中国 福建土楼について

福建省で有名な土楼建築 本当は方形のものが多い

厦門(中国語発音ではシャーメン)での仕事の後、福建土楼を視察した。厦門からのずっと運転してくれた運転手の李さんがあちこち案内してくれた。2008年に土楼群がユネスコの世界文化遺産に登録されて「格付け」が進んだからか、一族の繁栄の違いか、閑散とした土楼と住民や観光客でにぎわっている土楼の違いが極端だった。

円形土楼の外観 広角レンズで傾いているがもちろん壁は直立している
土壁は外壁だけで、内側はすべて木造である

9つの土楼を見た。円形が7つ。方形と楕円形が一つづつ。外壁は石の腰壁に土の外壁。腰壁の石は1mほども土中に続いており、壁の下に穴を掘って侵入しにくいという。土壁は版築といい土に 石灰、砂、粘土を混ぜて、型枠に入れ上からたたいて締め固める。モロッコのアトラス山中にあるベルベル人の集合住宅クサールと同じ工法だ。壁の厚さは一番下では2m以上もあり、上に行くほど薄くなるといっても1mはある。大東亜戦争の前のこと、賊が立て籠もった土楼を中国軍が砲撃したが外壁は壊れなかったという。


一階部分に窓はなく、2階から上に小さな窓がある。 砦ともいえる集合住宅だ。土楼によっては最上階に銃眼が開けてあり、外壁の内側に廊下がずっと走っていて、どちらから攻められても上から銃撃できるという。一方で内側の構造はすべて木造。一度正面の門を破られて火をつけられると脆いだろう。そのため正面の門も堅牢に作ってあり、門が火攻めされた場合の対策も施してあるという。

北側の祭壇から南の入口を望む。左右に会談が見える。

円形の土楼のプランはだいたい同じだ。大きさは色々あって30~80世帯が住むという。南の入り口を入ると正面北側に先祖の廟がある。土楼は同族の集合住宅だから一つの土楼に住む家族は同じ姓を持つ。入口から見て階段は西と東に一つずつ。一階の円形広場には井戸があるが、円の中心からは外れている。面白いのは専有区分で、一つの家族は縦に部屋を使っている。一階が台所、二階が寝室、三階が倉庫といった具合だ。大きな家族は2つ、3つのユニットを垂直方向に占有している。お天気であれは広場に落ちる日照で時間がわかるだろう。これはモンゴルのゲルと同じ原理。

福建土楼は山奥深くに立地している 一番向こうの土楼は楕円形

上の写真は田螺坑土楼 (Tian luo keng tǔ lóu ) 群 。ニックネームは「四菜一湯」。食事のおかずが4品でスープが一品という意味。ゴジラでもこんな大食いはしないだろう。かつて衛星写真で円形土楼を見たアメリカ軍がミサイルのサイロだと勘違いしていたという話もある。福建土楼は集合住宅。日本で集合住宅と言うと都会や町にあるものだけど、福建土楼はえらい山の中にある。これには歴史があり、中原(黄河流域)や華北から故郷を追われて揚子江の南まで逃げてきた 客家と言われる人たちが 「客家(はっか)」と呼ばれる人たちが、主として土楼を建てた。

客家は古くは紀元前から、時代が下がっては清の時代まで五波にわたって南に移動して来て、勢い余って台湾や海南島はもとより、華僑として東南アジアにまで移民した。華僑の1/3は客家だそうで海外での政治家も多い。
・リー・クワン・ユー(元シンガポール首相)
・タクシン・チナワット(元タイ王国首相)
・ 李登輝(元台湾総統)
中国国内では
・孫文(元中華民国主席)
・鄧小平(元中国主席) などがいる。

楕円型の土楼 観光名所になっており一階はレストランと土産物屋さん

各国の建築や暮らしぶりに感心のある人は是非訪れてみるといい。厦門から車で2時間ほど。厦門のまちでは日帰りのパッケージ・バス・ツアーも売っている。土楼地区に入るには入場料が必要だが、民宿をやっている土楼もあるので泊ってくるのも面白いかもしれない。