目次
1.始めに
2.行事のあらまし
2-1)行者像のお参り
2-2) 護摩木の購入と祈願書き込み
2-3)護摩焚き
3.行者講のこと
3-1)役の小角 (えんのおづぬ)
3-2)大峰登山
3-3)修験道の宗派
3-4) 今井の行者講.始めに
1.始めに
行者まつりとは橿原市今井町の春日神社境内の行者堂で執り行われる行事です。毎年7月7日午後7時から厄除けの護摩木が焚かれます。護摩木には参列者が「家内安全」などのお願いを書き込み、二人の僧が読経しながら焚くことでその願いがかなえられるともいわれています。
2.行事のあらまし
2-1)行者像のお参り
7月7日の午後7時が近づくと今井の町の人たちが春日神社に集まってきます。夜店も4つほど出て子供たちは大喜びです。行者堂は春日神社の境内なので、お参りの人たちはまずは春日の社殿にお参り。次に少し離れた行者堂でこの日だけ御開帳の役行者を拝みます。因みに行者像が正面で、左右には地蔵菩薩さまと不動明王さまがお祭りされています。仏式なので柏手は打ちません。お燈明や線香をお供えする人も多くいます。どちらも一本30円。夜の七時になると役行者の法要が始まります。蓮妙寺からの二人の僧侶、行者講と春日講の講元、自治会連合会の会長などが行者堂に入りお経を唱えます。お経は法華経だそうです。
2-2)護摩木の購入と祈願書き込み
絵馬堂で護摩木を一本100円で買って、置いてあるマジックインクで願い事を書きます。自分の分だけでなく家族や知人友人を思って一人で10本もの願い事を書く人もいます。町の人口は1000人でも護摩木の数は3,000本にもなります。護摩木は昔小学校の給食に使われていたパンの木箱に並べられ、護摩焚きを待つことになります。
2-3)護摩焚き
コンクリートブロックで作られた護摩壇(囲炉裏?)に火がつけられ、僧侶二人による護摩焚きが始まります。お坊様たちは護摩木の願いを読み上げて次々と護摩壇に投げ入れ焚いていきます。その火力はものすごく法衣のお坊様たちは汗だらけ。すごいお仕事だと思います。3,000本を読み上げて焚くには1時間以上もかかるそうです。あなたの願い事は天に届いたでしょうか? 年上のほうのお坊様が時々片手持ちカスタネットを打ち鳴らします。これは木剣数珠という日蓮宗の法具。右手に持って体の前で音を鳴らしながらカチカチ鳴らしますが、これは九字切りという邪気を払う祈祷です。九字とは「臨」「兵」「闘」「者」「皆」「陣」「裂」「在」「前」で、これを唱えながら木剣数珠を打ち鳴らします。
- 行者講のこと
3-1)役の小角 (えんのおづぬ)
死後もかなりたってから神変大菩薩と名された役行者は奈良県御所市茅原の生まれ、加茂氏一族です。お父さんの名が大角なのは面白いですね。634年生まれ701年死去なので、645年の大化の改新、672年の壬申の乱、694年の藤原京、701年の大宝律令などの時代の人です。しかし本人は政治にはあまり関わらず山岳での修行に明け暮れました。最初は自宅近くの金剛山葛城山での修行ですが、それが高じて吉野、大峰、熊野にまで足を延ばし、修験道の祖となりました。仏教か神道かについて本人は神仏習合(神と仏は同じもの)をモットーにしていたようです。山岳修行の結果、超能力を身に着けて二匹の鬼(前鬼、後鬼)を従えて不思議な技を現しました。大阪箕面市の天上ケ岳にて68歳で亡くなりました。
3-2)大峰登山
現在でも女人禁止の修験道の聖地です。登山するのは山上ヶ岳(標高1719m)で、大峰とは付近の山脈を指す言葉です。吉野郡大塔村の洞川が登山基地で、洞川には旅館街があります。塾長は二度登山しました。岩場もあり、急峻な坂には鎖の手すりを設けられています。10mほどのほぼ垂直の岩を上りましたが、これにはまず右手でここをつかみ、左足をここのくぼみに入れて、次に左手は、、、という具合にお約束通りにやらなければ立ち往生します。私も7mくらいのところで動けなくなり困りました。すると岩の上から親切な人がのぞき込み、「その右手を離して横の岩をつかみ、左足は一度下のくぼみまで下げて、、、」と一つ一つ解説してくれました。あれが無ければ死ぬか大けがをしてたでしょう。
3-3)修験道の宗派
修験道は真言宗と天台宗に分かれていますが、今井町の行者堂のある常福寺は天台宗だったので、今井の行者講はそもそも天台系といえるでしょう。これを本山修験道と呼び、京都の聖護院が総本山でした。修験道には別の一派があったようで、これが京都醍醐寺の三宝院を中心とした当山派と呼ばれた勢力です。明治五年の修験宗廃止例により、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に統合されました。大峰山の頂上にある大峰山寺は現在は宗派の混ざった五ケ寺の交代での管理になっているようです。吉野山の金峯山寺(蔵王堂)は金峯山修験本宗を名乗っています。つまり修験道の拠点である金峯山寺と大峰山寺には天台系、真言系のどちらの山伏もお参りできるわけです。今井町ではかつては金峯山寺から護摩焚きの山伏に来てもらっていたという話も残っています。現在の護摩焚きはは町内の日蓮宗蓮妙寺から二人のお坊さまに来ていただいて行われています。
大和まちなみ文化塾で古文書を教えてもらっている吉井敏幸先生によれば、中世・近世の大和を理解するうえで宗派は大切。そもそも興福寺の荘園であった今井に突如として浄土真宗の町が出来たのはなぜか? しかも今井の常福寺が多武峰の妙楽寺の末寺です。興福寺と妙楽寺は双方藤原氏ゆかりの寺なのに仲が悪く、多武峰は興福寺勢力に何度も焼き討ちされています。吉野には吉野で修験道の勢力がありながら飯貝に浄土真宗上善寺の建立を許しています。これらの謎解きのためには当時の宗教分布の理解が欠かせないとか。 宗教は政治そのものともいえそうです。
3-4)今井の行者講
江戸時代の文書である今井町明細記には年中行事として「役行者会(えんのぎょうじゃえ)常福寺 (旧暦)六月七日」との記載があります。また宗門改めには「山伏」という職業の人がいたという記録が残っています。現在の今井町春日神社は神仏混交の時代には「常福寺」と呼ばれており桜井の天台宗妙楽寺(現代の談山神社)の末寺でした。今も常福寺の建物の行者堂と観音堂が残っています。行者堂には「役行者」、「地蔵菩薩」、「不動明王」がおまつりされています。
恐らく江戸時代には今井町に行者講があり、毎年男性グループが大峰山(山上さんとも呼ぶ)に出かけていたことでしょう。男は大峰山に登って初めて一人前ともいわれたそうです。民俗学でいう通過儀礼ですね。庶民の元服式のようなもの。その年に初めて大峰山にいく男を新客といいます。講の一行が山から帰ってくると町の人たちは春日神社の行者堂で一行を迎えますが、面白い風習がありました。妊婦たちがゴザの上に横になって、その上を新客がまたいで歩くというものです。新客が山から持ち帰った霊気でお腹の赤ちゃんが元気に育つのだそうです。40年ほど前に年寄りから聞いた話です。
高齢化が進みいつしか行者講は大峰山に行かなくなり、7月7日のお祭りを開催する団体となりました。最近は法被を新調して30人ほどで活動されています。参拝者がお願い事を書き込む護摩木は一本百円。高齢者は同居していなくても子供や孫の健康・幸福を願って護摩木を購入して焚いてもらいます。人口千人ばかりの町ですが、護摩木は三千本も購入があるそうです。3,000本x100円=300,000円。これで祭りの費用は賄えるのでしょう。護摩木を書いて収めると日本手ぬぐいがいただけます。これは町内の団体・事業所からの奉納です。よくできた仕組みだと思います。
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