第42回の全国町並みゼミは埼玉県の川越市で開催され参加してきました。江戸城の北の守りとして要衝の地であることは知ってましたが、それは江戸の事情。奈良県、大和国には何の関係もないだろうと思っていました。が、しかし。歴史に川越の歴史マニアに聞いてみると、色々と因縁があるんですね、川越と大和国。
【写真1】埼玉県の川越は重厚な蔵造りのまちなみで有名
江戸時代は交通も不便だから、人の行き来はずいぶんと限られていたと思いがちです。でも各地の街道は整備されていてお伊勢参りなどの巡礼旅が盛んでした。また大名には「国替え」という制度があり、大名が家臣をつれて領地を異動するという制度がありました。また戦役や土木工事では遠方の大名が幕府から役目を仰せつかることも多く、日本各地は色々な因縁で結ばれていました。川越と大和国も歴史的因縁には二つあります。
まず最初の因縁は島原・天草の乱。寛永14年(1637)に天草四郎を大将として乱がおきました。実はその22年前の慶長19年(1614)に大和五条の二見藩から4万3千石で島原藩に転封になったのが松倉豊後守重政。五条では名君の誉れ高い重政ではありますが、島原では重税とキリシタン弾圧により住民の反目を買い、ついに 島原・天草の乱 を招いた、とされています。乱がおきたのは嫡男勝家が当主の時代ですが、領内での初期の鎮圧に失敗、日本国中を騒がせる混乱になりました。後に乱の責任を問われて勝家は異例の斬首刑となり、松倉家本家は断絶しました。
事態を重く見た幕府が派遣した板倉重昌を総大将として九州の諸藩が一揆の拠点である原城を攻略しようとするも失敗。この事態を打開すべく幕府から追加で派遣されたのが老中 松平 伊豆守 信綱です。非常に有能なひとで知恵が働くから「知恵伊豆」と呼ばれました。この信綱が乱を平定しその褒美に、もとの3万石を倍増されて6万石で転封されてきたのが武州川越藩。川越藩の振興に大いに寄与したそうです。つまり天草の乱で断絶となった松倉家は奈良県の出身。逆にこの乱でチャンスをつかんで出世した松平信綱がもらったのが川越藩、という因縁です。
【写真2】現在の航空写真に重ねた川越城
次の因縁は大和郡山の柳沢藩に関係します。大和郡山藩の藩祖の実父である柳沢吉保は安定の江戸時代において異例の出世を果たしたシンデレラ・ボーイです。1658年生まれで、元は群馬県の舘林藩士でしたが、なんと 舘林藩主の綱吉が兄である第4代将軍家綱の跡目をついで第5代将軍に就任。吉保も幕臣となりました。禄は530石から始まり、綱吉の側用人として取り立てられ、加増に加増を重ね、ついに1694年7万2千石で川越藩主になりました。さらに勢いは止まらず1705年に与えられた甲府の所領は15万石。今も東京文京区に残る大名庭園の六義園は綱吉の江戸屋敷跡です。
蔵造りの街 川越のランドマーク「時の鐘」。400年間も時刻を知らせてきました。
柳沢吉保亡くなったのは1714年のこと。甲府近くの永慶寺に葬られました。そして跡継ぎの柳沢吉里が転封を命じられ同じく15万石で大和郡山藩に入ったのは1724年のこと。面白いのは菩提寺の永慶寺まで甲府から大和に移転したことです。大和柳沢藩の藩祖吉里はよく領内をおさめ今でも城内の柳沢神社の御祭神としてまつられています。つまり川越藩主の柳沢吉保がいなかったら大和郡山の殿様は柳沢家にはなっていなかったということです。
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