この連続古文書教室は今井にフォーカスして深る掘り下げる企画。初回には資料として称念寺文書の写真版五点と翻刻資料十点が配布され、大和において今井が如何に特殊な町であったのかが語られました。称念寺の今井慶子住職も参加して議論はエスカレート。 あっという間に時間が過ぎました。それにしても今井はその成立・発展に謎の多い町です。教室では次のような話がありました。
中世を通じて大和一国を牛耳っていたのは興福寺。大名のような存在だったようです。異教徒の一向宗が天文二年(1533年)今井の土地に道場をつくるのを興福寺が防げなかったのはどうしてか?
今井を築いたのは本願寺の門徒で近江から来た 河瀬兵部房だが、こちらに来て今井兵部豊寿を名乗った経緯は? もともと居たはずの今井氏はどうなったのか?
近くに八木という立地(横大路と中街道の交差点)に恵まれた商人町があるのにどうしてわざわざ近くに別の商人町を作ったのか? 商いの町なのに商売客の町内での宿泊を禁止したのはなぜか?
道場建設からたった四十年、天正三年には信長から朱印状をもらうほどの地位になった。 どうやって短期間に「海の堺、陸の今井」と並び称されるような一大商業集積地となったのか?
この辺りのことはわかっておらず昭和31年の今井町史における永島福太郎先生の記述にも苦労の跡があります。この古文書教室は以下の日程で続きます。問い合わせは大和まちなみ文化塾 090-6486-9555まで。
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